「橘」という勢力―1
はじめに
橘はおのが枝々なれれども玉に貫く時同じ緒に貫く
天智天皇は、天智四年、亡命してきた百済人四百余人を近江神前郡に住まわせ、同八年には七百余人を近江の蒲生郡に住まわせた。また佐平余自信、沙宅紹明に大錦下、鬼室集斯に小錦下を授けるなど百済人に官位を授けて取り立てた。こうした状況を風刺したのが冒頭に掲げたワザ歌である。
別々のところに生った橘の種で一つのビーズの飾りを作るが如く、橘という氏族が一続きになっているというのがこのワザ歌の意味するところだが、さてここで「橘」として表されている氏族とはどういう氏族なのか。次のように「橘」を名に持つ一群の人物がある。
允恭皇后忍坂大中姫の娘 但馬橘大娘皇女
雄略皇后 草香幡梭姫皇女(またの名橘姫)
宣化天皇皇后 橘仲皇女
天智天皇妃 橘娘(たちばなのいらつめ)阿倍倉梯麻呂 大臣の女
また用明天皇は橘豊日尊であるが、この名も橘勢力の擁立であることを示している。橘寺などもこの勢力の建立によるものであろう。
「橘」というのはもともとが但馬守がトキジクノカクノミ、つまり橘を持ち帰ったという伝承に基づくもので、これは難波吉士といわれる人たちが、以来自らの象徴としてきた名である。百済人を引き立てているのは、この橘勢力、つまり難波吉士だと考えられるのである。
ではなぜ橘勢力が百済と結びついているのだろうか。またなぜ橘勢力は百済人の居住地を近江に定めているのだろうか。本論では、草香部氏を中核とする難波吉士の乙巳の変前後までの状況について述べる。
近江―オシサカ―茅渟
本誌前号では『草香目子媛の草香』なる拙論を掲載した。履中朝から雄略朝まで、草香部氏が皇妃を擁立している。五世紀中葉以降、皇妃の家柄は唯一草香部氏である。継体の元妃、「尾張連草香の女、目子媛」という時の草香もやはり草香部氏を表すものだとの主張を述べた。
(履中)草香幡梭皇女
(允恭)忍坂大中姫
(安康)中蒂皇女(長田大娘皇女)=大草香皇子の妻
(雄略)草香幡梭姫皇女
反正と安康は前号拙論で存在に疑問を呈した。反正の皇夫人は大宅臣の祖木事の女津野媛というのだが、『記紀』には大宅臣の祖木事の事跡は何も書かれていない。そのような活躍のない氏族から皇妃が立つということはありえない。確かに、「后妃」はほうぼうの氏族から入れられているが、こと「皇妃」となると話は別である。皇妃は次代の天皇を妊む存在であり、皇妃を立てうる氏族は限定されているのである。
古墳時代の王は男性だが、三世紀は卑弥呼のように女性の王がいたし、アマテラスのように女神が祭られてきた。日本は本来は母系社会であったらしく、それを反映して元は女性の王であったものが、男性の王へという変化が古墳時代になるまでに起こったようだ。しかし、『安閑紀』に「皇后、体は天子に同じというとも~」とあり、後の時代になっても名目上は天皇と皇后は同格の存在だったらしい。推古や皇極のように皇妃であった人物が天皇位についていることも皇妃の地位の高さを物語っている。
要するに、皇后という地位は天皇に匹敵するものともいえるほどであるから、地方氏族や力のない氏族から入れられるものではないということである。
允恭妃の忍坂大中姫というのも、こういう見地からすれば疑問がわく皇妃ということになる。「大中」は現在の滋賀県蒲生郡安土町大中という地名であり、『紀』で弟姫が近江坂田から来たとしている点からしても、忍坂大中姫は近江から立った皇妃と考えられる。
するとこの皇妃は近江の地方豪族が立てた皇妃なのであろうか。いやだから地方豪族が皇妃を立てるということなどはありえないのである。またそれを既存の勢力がやすやすと許すはずもない。
忍坂大中姫が立つにあたって『記紀』には何の権力抗争も描かれていない。これまで皇妃を出していた氏族が沈黙したまま、新興地方豪族に皇妃の座を明け渡すというようなことはまずないとしなければならない。
忍坂大中姫は、その皇女に但馬橘大娘皇女、名形(長田)大娘皇女の名があることからして、大中姫の背後に、但馬氏や長田(現在の神戸市長田区)と関係を持つ草香部氏などの難波吉士の存在が認められる。少なくとも履中→允恭→雄略の間の皇妃擁立勢力は、一貫して草香部氏を中核とする難波吉士であり、難波吉士が近江に入って(あるいは近江勢力と関係を結んで)立てたのが大中姫と解される。
近江蒲生の地では、雪野山・瓢箪山で前方後円墳が築かれ、さらに大津や湖北の浅井郡、やや遅れて野洲川流域、坂田郡に古墳が拡大していく。こうしたヤマト王権の支配拡大の実行部隊は難波吉士であったと考えられる。
ところで、オシサカ氏というと孝徳(軽皇子)の家系で、
オシサカ(押坂彦人大兄皇子)― 茅渟王 ― 軽皇子
という系譜がある。また押坂彦人大兄皇子の母広姫は息長真手王の女であるから、
近江 ― オシサカ
という系譜も確認できる。この系譜とほぼ同じものが『紀』の忍坂大中姫の記事の中にも現れる。
忍坂大中姫の皇子皇女に木梨軽皇子・軽大娘皇女がおり、軽皇子は王位を望んだが失脚している。また弟姫(衣通郎姫)のために茅渟に宮を作ったと『書紀』は書いているが、このことは実際に宮の造営があったというよりは、オシサカの姫と茅渟という地域に一定の繋がりがあることを示すものと解される。すなわち
近江 ― オシサカ ― 茅渟
に繋がりがある。この繋がりの意味を次に考察しよう。
大河内氏―坂本氏―草香部氏
前号でも述べた通り草香部氏は摂津長田と関係がある。大草香皇子の妻で後に安康妃となる中蒂媛皇女は雄略即位前紀にはまたの名として長田大娘皇女となっている。草香部氏が摂津長田から妃を迎えているわけだが、これは草香部氏が長田の氏族と結びついているか、あるいは長田を統属したことを示している。
ところで、やはりこの長田と関係している氏族に大河内氏がある。摂津国菟原郡(西宮市)に河内国国魂神社があり、雄伴郡(神戸市長田区)に凡河内寺山がありこれが氏寺だという。この氏の出自については、菟原郡・雄伴郡を本拠としたが、河内へ進出したものとする論者もあるが、直木孝次郎氏は、本来は河内を拠点とした氏族であろうとしている(註1)。継体天皇が淀川右岸までヤマト政権の勢力下においたのを契機に、淀川左岸の河内に勢力を有していた河内直が淀川右岸にまで進出した。河内の拡大したものとして凡河内国と称され、河内直は凡河内直の氏姓を得たのであろうという。氏寺が雄伴郡(神戸市長田区)にあるのは、藤原氏が平城京に氏寺興福寺を建てたように本来の居地以外に氏寺を建てることがあるとしている。
大河内氏の勢力圏が本来、河内~淀川左岸だとすると、これは草香部氏の所在地域と重なっている。草香部氏は古くからの勢力で長田との関係も履中朝からが現れるが、大河内氏は、雄略紀に凡河内直香賜の名が始めて現れる氏族である。草香部氏のいる長田に河内直が入ったのではなく、草香部氏が大河内氏を名乗ったものと見てよいだろう。
安康紀と雄略紀に次のような話がある。大泊瀬皇子(雄略)の妃に草香幡梭皇女を乞うたが、使いをした根使主が草香部皇子が承諾の徴として差し出した押木珠蔓を横取りした上、草香部氏は皇妃を出すつもりはないと言っていると讒言した。この根使主(坂本臣の祖)の悪事は、後に露顕し、根使主は殺される。そして、根使主の子孫を二分し、一方は大草香部民として皇后に封じ、もう一方は茅渟県主に与え、また難波吉士日香蚊の子孫を探して大草香部吉士にしたというのである。
この話は造作色が強くそのまま信じるというわけにはいかない。茅渟県主に袋かつぎ人として与えられたという根使主の子孫の坂本臣は推古朝の高官であり、祖先が袋かつぎ人であったようには見えない。しかしこれらの話が全く根拠がないかとなるとそうではなく、氏族の分岐や統合といったものを反映している可能性が高い。
ここで注目したいのは、根使主(坂本臣の祖)が、大草香部民と茅渟県主に二分されたという記述である。
坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。根使主の所在地は坂本であり、これを二分した一つを治めたのが茅渟県主とすれば、坂本は茅渟の領域にある。坂本は奈良時代に和泉監・和泉国府がおかれた和泉府中があった地であり、聖武天皇の珍努宮があったと推定されている地域である。
「茅渟」については、衣通郎姫を住まわせた地として現在の泉佐野市上之郷付近などに比定されることがあるが、和泉府中とみるのが適当である。
坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解される。根使主の「根」とはおそらく「在地」であり、草香部氏が坂本(茅渟)に侵攻し、在地勢力を制圧したということであろう。
『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。
坂本臣糠手 推古八年 百済派遣
推古十八年 新羅・任那の使者を迎える
大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小 徳阿輩台)
この両者は同一人物であり、複姓であろう。ともに外交に関係し、外国から来た客の接待にあたっている。外交交渉をやりうるのは王権の中でもトップに近い官位の人物に限られる。それがたまたま同じ「糠手」という名であったとは考えにくい。また、坂本氏、大河内氏がなにゆえに王権中枢にいるのかということも問われなければならない。それは両者とも草香部氏に発する氏族だからである。
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