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  1. マキムクはマキの向かい
  2. 祭祀でよいか
  3.  

語源でとく古代大和

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真説―古代史

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  2. 「橘」という勢力
  3. 稲荷山鉄剣名

談話室

  1. うましうるわし

 

マキムクはマキの向かい

 纒向というのは「マキに向いている」ということであり、今日のふつうの言い方で言えば「マキの向かい」の意味である。ではマキにムクというそのマキはどこかというと、纒向川を挟んだ纒向の対岸、三輪山の裾野に広がる土地、現在の三輪の地域と考えられる。

  ミマキを『書紀』は「御間城」と書き、『古事記』は「御真木」と書いている。ミ(御)は尊敬の接頭語だが、マキは『紀』の書くとおり「間城」か、『記』の表記からすると「真城」と考えられる。ただ「間城」では場所の意の語を重ねただけで尊敬表現が含まれないので、私は本来「真城」だろうと思うが、今はそれはどちらでもよい。つまりミマキはマキを丁寧にいった語であり、それは後のコトバで言えば「御所」という種類の語なわけである。

  崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖であるが、それはミマキに入った天皇であることを意味する。三輪山を背後にし、巻向川と初瀬川に囲まれた三角形の区域は、五世紀の茅原大墓古墳、六世紀の毘沙門塚古墳などが数基あるだけで初期古墳の空白地域となっている。なぜそこに古墳がないかというと、この地域が天皇の御所であり、この区域を避けて古墳が造営されたからであろうと考えられる。

  人によっては三輪山信仰ということを考え、この地域を三輪山の神域と解し、神域ゆえに古墳を作っていないのだと解する人がいるかもしれない。しかし、三輪山信仰が先ではなく、崇神以来そこに王宮が営まれることによって、神域という観念が発生したものとみるべきである。

  『記紀』では、三輪山の神を大物主神とし、次のような系譜の物語を書いている。
<記>大物主神―母:陶津耳命の娘活玉依毘売―オオタタネコ(河内の美努村)[三輪山伝説]
<紀>大物主神―母:陶津耳の娘活玉依媛―オオタタネコ(茅渟県の陶邑)[三輪山伝説]
      妻:倭トト日百襲姫命 [箸墓伝説]
『古事記』の三輪山伝説は、糸巻きが三輪残ったことから「三輪」という地名ができたという物語を述べるが、これは明らかにミワという地名を元にした付会的地名説話である。また活玉依毘売の妊娠の相手がミワ山の神であったというだけの話で、「麗しき壮夫」とは書いているが、特別な神威を述べているわけではない。

  『書紀』は、三輪山伝説と箸墓伝説を結びつけた話になっているが、これも「箸墓」をネタにした付会的説話であり、ハシ墓という墓があって、そこからハシで陰を突いて死んだ人物がいたという物語が創作されたものと考えられる。

  「陶ツ耳(耳は首長)」は、陶器の技術を持ったおそらくは渡来系の集団である。大物主のモノは、モノノベ、モノノフなど武人を表すのに使われ、『岩波古語辞典』は「モノは武具・刑具を直接言うのを避けた表現」(物部の項)と説明している。従って大物主とは武人・軍人と解され、軍事的性格を持つ三輪の王と陶器などの製作集団とが姻戚関係を持ったという婚姻譚が元になってできた話と思われる。

  天皇の大殿に祀っていた神は天照大神、倭大国魂神であったが、これに対し大物主神は新しく祀られた神である。大物主神が天皇の神格化と考えられるという点では、ミワの地の神域化を三輪山信仰といってもよいが、これは三輪山の自然信仰などとは別のものである。

  ミマキ入彦の入彦を入婿と解する説がある。卑弥呼のような祭祀を司る女性と、現実の政治を行う男性とが「姫彦制」という形で政治を行ったとみる。ミマキ入彦の入彦というのも、そういう巫女の女性のところに入った天皇であると考えるわけである。

  しかし、その考えは無理だと思う。垂仁天皇は『紀』では活目入彦五十狭茅で、これだと意味がとりにくいが、『記』では伊久米伊理毘古伊佐知となっていて「イ久米入彦」だということがわかる。イ久米のイは、イ吹く(息吹く)、イ通う、イ隠るなどと使われる強調の接頭辞であり、イニエ(崇神、ニエは食事、生け贄など)、イサチ(垂仁、サチは幸)の部分にも使われている。

  すなわち「イ久米入彦」は「久米に入った人」ということである。垂仁の皇妃ははじめ狭穂姫であり、後には日葉酢媛に変わるが、久米に巫女としての女性がいたとか、元妃がいたという形跡はない。垂仁はクメの地に入った人物と解されるのであるが、これはやはり崇神も同様であって、ミマキに入りそこで国を治めた(初国シラス)天皇と理解すべきである。

  ミマキ(現在の三輪の地)が王権の所在地で、そこをさけて、纒向(纒向川以北)を墓域としたのだと言えば、いや纒向にも宮があったという反論が出そうである。『記紀』は垂仁・景行朝では纒向に宮があったとしている。
垂仁―[記]師木玉垣宮 [紀]纒向珠城宮
景行―[記]纒向日代宮 [紀]纒向日代宮(後、志賀高穴穂宮)
 垂仁朝は、『紀』は纒向珠城宮としているが、『記』は師木玉垣宮であって食い違いがある。巻向も後の磯城郡ではあるが、『紀』が宮の地について『記』以上の資料を持っていたかどうか私は疑わしいと思う。

  景行については、『記紀』ともに纒向日代宮である。しかし、景行・成務・仲哀・神功については、後の舒明・皇極などと同じくタラシという称号を含むことから後代的な造作とする見解がある。私は、まったくの造作とまでは思わないが、成務の志賀高穴穂宮のように突然に宮の地が近江となるのはやはり不自然である。また景行紀では日本武尊が九州・東海・東北などを一人で平定するというのであるから、この話も多くの伝承が寄せ集められていると見るべきで、とてもそのまま信じるというわけにはいかない。従って垂仁・景行紀の纒向という宮の記載はやや疑わしいわけである。

  しかし、雄略記に「巻向の日代の宮は」という歌謡があり、この歌が実際雄略天皇のものかどうかは疑問であるが、纒向日代宮自体は実際あったようである。桜井市穴師付近という推定があるが、じつはその辺りは古墳がない区域なのである。西殿塚-行燈山-渋谷向山という大型古墳を南北に繋いだラインをひいてみると、穴師あたりはこのライン上にある地域にもかかわらず、そこに古墳がないことがわかる。

  巻向・柳本・大和のおおやまと古墳群は現在の天理市長柄の辺りでいったん終わる。ここから北方の佐紀盾列古墳群まで、古墳地帯が途絶えるわけだが、そこは物部氏、和邇氏が所在した地域である。彼等の居住地域では大きな古墳の造営が避けられている。もちろん、杣之内古墳群、石上豊田古墳群などはあるが、それらは区域が限定されている。

  基本的にマキムクという地名はマキに対する名前である。マキムクには箸墓古墳などの大規模な古墳がいくつも造営されているわけだが、古墳造営に動員された労働者の数も相当数にのぼるだろう。「百姓流離、あるいは叛く者あり」(崇神紀六年条)という状況下で、王宮と古墳造営キャンプがあまり近いというのは好ましいことではあるまい。マキ(ミマキ)を王宮の所在地とし、マキムク以北を墓域として区別しているように思われる。

 近年、纒向遺跡で大型建物跡が出土し、卑弥呼の宮殿跡などというニュースを聞くが、墳墓と宮殿が混在していたような状況を想定するのには疑問を感じるわけである。

                          渡部正路(『古代史の海』2010年12月 62号)掲載