祭祀でよいか~NHK『邪馬台国を掘る』を見て
去る一月、NHKスペシャルで「 “邪馬台国”を掘る」が放送された。纒向に焦点をあてながらも、吉野ヶ里の発掘状況や高島忠平氏のインタビューも織り交ぜ、畿内説・九州説のバランスにも配慮したものだった。昨夏の炎天下で汗をたらしながら発掘に携わる人達の映像見て、今更ながらまことにご苦労なことだという思いを強くした。
しかし一方、私はこの番組に強く違和感を感じたということも言わねばならない。それは番組全体のストーリーが卑弥呼の鬼道を軸にしているという点に関してである。この番組に限らず、新聞などの考古学報道では祭祀という視点で古代を解しようとするものが多い。
番組は、まず纒向で発掘された銅鐸のかけらに注目する。銅鐸は単に槌などで叩いただけでは凹みはするが割れず、たき火の中で熱してから叩くと簡単に砕けるという。番組では石野博信・橋本輝彦両氏がそのデモンストレーションをやって見せ、テレビ的な演出としては成功していた。纒向で見つかっている銅鐸の破片は、そのようにして破砕された形をしている。「ここまでやるか」(石野氏)というくらい弥生の銅鐸の祭が否定されているのである。
名古屋大学の中塚武教授は、卑弥呼登場前の時代は大雨や旱魃が繰り返された不安定な気候の時代であったという。飢饉が続いたために、銅鐸を用いた過去の祭祀を捨て、新しい宗教をひっさげて卑弥呼が登場した。それが卑弥呼の鬼道だと石野氏らは解釈する。
銅鐸を弥生の祭祀の道具とみるのは、ごく一般的な見解と言ってよいだろう。しかし、銅鐸は、弥生時代の半ばに出現するもので弥生時代の最初からあったわけではない。では弥生の祭祀は弥生時代の半ばから始まったのかというと、そんなことはなくもっと古い起源を持つだろう。銅の鋳造技術は朝鮮半島を経由してやってきた当時の先端技術といってよいものだが、その先端技術が弥生祭祀と直ちに結びついたとは考えにくい。銅鐸は基本的には威信財と見た方がよいのではなかろうか。石野氏らの見解は、弥生祭祀=銅鐸という確かとはいえない前提に立っている。
銅鐸が何かについては様々な見解があり簡単に解決する問題ではないが、徳島の銅鐸について、徳島で産出する水銀朱を持って行って交換してきたものではないかという見解を聞いたことがある。私はそれはありそうなことだと思う。卑弥呼は魏に遣いを出し銅鏡等をもらってきている。ここには先進文化の権力者のところに貢ぎ物を持って行けば、それ以上のお返しが期待できるという文化が前提にあるように思う。銅鐸はヤマト王権以前の権力者・舶来文化保持者の配布物であり、新王権=ヤマト王権のそれが三角縁神獣鏡ということかもしれない。
纒向の昨年の発掘成果として、土坑から二七六五個という桃の種が見つかったというのがある。番組はこの桃の種に注目する。橋本氏はこの桃は食べるために集めたものではなく、祭祀のために集められたものだという。中国では、桃は神仙思想と繋がり、神仙思想の流れをくむ初期の道教がすなわち鬼道である。中国から桃を尊ぶ新たな宗教を取り入れたという纒向の王、それが卑弥呼だったのではないかというのが番組の推理である。
「卑弥呼は鬼道で統一を図ろうとしたということが今回おぼろげながら見えてきました」(辰巳和弘教授)というのである。
桃の種が見つかった土抗からは、土器のかけら、動物や魚の骨、木の実等が大量に出土している。私などがまず考えるのは、この穴は館の住人のゴミ捨て場ではないかということだが、発掘に携わる学者はそういうふうにはとらないらしい。番組では、動物や魚を祭壇の捧げ物とし、さらに桃を多量に盛った籠を祭壇の周囲に二、三十個並べて、その祭壇の中で卑弥呼らしい人物が舞うという演出をしていた。もし、桃の種が人間の食べ残しなら、この演出は滑稽ともいえることになるが、二千年近い前の真実が明らかになることはあるまいということなのだろうか。
卑弥呼というとどうしても鬼道という話になる。卑弥呼は正始八年、魏に遣いを送って、狗奴国を共に討とうと誘いをかけた。これに対し、魏は詔書・黄幢をもって告諭した。卑弥呼の魏に対する提案は受け入れられなかった。その責任をとって卑弥呼は死んだらしい(以て死す)。
魏からすれば、海を渡って軍を送りその見返りに列島の弥生集落の一つを手に入れるというのではメリットが少なかったのであろう。だから鬼道をもってよく衆を惑わす人物だったという判断になる。
では、邪馬台国にとってはどうだったのだろうか。卑弥呼は狗奴国にほとほと手を焼いてこんな提案をしたのだろうか。私にはそうは思えない。卑弥呼は大陸の文化や技術、武器、あるいは政治や支配のしくみ、それが欲しかったのではないだろうか。人に協力を要請する時には報酬が必要である。狗奴国を餌に先進文化を導入したかったのではなかろうか。卑弥呼は、知略の働く国際的な視野をもった人物だったかもしれない。
落合淳思『古代中国の虚像と実像』によれば、中国の殷王朝では亀の甲羅などのヒビワレを用いた甲骨占卜が政策の決定に重要な意味を持っていた。では殷王朝の政治が占いに頼ったいい加減なものであったのかというと、実際にはあらかじめ甲骨に細工をすることで、ひび割れの形をコントロールし、望む結果を出していたという。甲骨占卜は、表面上は政策を決定する手段であるが、実際には決定された政策を宣言あるいは承認する儀礼的な行為であった。
このことは卑弥呼の鬼道という場合にもあてはまるだろう。卑弥呼の鬼道とか祭祀ということによって、当時の人々の行動が解されるわけではなく、おそらくそれは上部構造の一つにすぎない。
このことは古墳祭祀という場合でも同様である。古墳というのは、土を盛って山を造るという作業で、はてしなく非生産的な作業である。その労働を農地を開墾したり水路を曳いたりするのに振り向ければ共同体は豊かになるが、古墳造営のような非生産的なことをすれば疲弊する。実際、纒向で古墳が造営される一方、唐古・鍵では人口が減少しているし、読売新聞によると、吉備でも弥生末をピークに造山古墳の時期には住居址が減少するという松木武彦氏の研究があるようだ。二千年前の人間でも、何が共同体にとって益か、何が害か判断がつかないわけはない。当時の支配構造がどういうものであったかに目を向けることが必要で、祭祀を云々するのは目くらましになりやすい。
番組の終わりの方で、高島忠平氏が、柄の先に環のついた小さな刀を示し、それが中国特有の剣であることに注目していると発言しておられた。なぜそんな剣が重要なのだろうか。
中国では日本列島の何百年も前に戦国時代があり、王を頂点とする支配体制が完成し、侵略征服戦争を繰り返していた。それは世界中のどこでも見られる汎用的な社会発展の様式と言ってよい。その大陸的な支配構造が、弥生集落が点在しているにすぎなかった倭列島に、ある時期に関を切ったように広がるのである。卑弥呼の希望したことが、卑弥呼の死後何十年か後に実現したともいえよう。高島氏は、小さな中国製の剣をその象徴として見せることで、ヤマト王権の重要な特質を示されたと私は理解している。
卑弥呼の鬼道に我々もまた惑わされてはならない。
渡部正路(『古代史の海』63号 2011年3月掲載)